2005年12月28日(水) 韓国の旅
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天気(快晴) 日中の気温0.7℃
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●11:10新村(シンチョン)市外バスターミナル→13:00江華(カンファ)総合バスターミナル到着→13:30タクシー(貸切)→16:30江華総合バスターミナル到着→18:10新村市外バスターミナル→麻浦(マポ)のホリデーイン・ソウルホテル→仁茶洞(インサドン)の旅館→20:00友人に会う(-23:30)
◆江華総合バスターミナル
◆江華島に到着 コンビニで買っておいたおにぎりを食べ,バスに乗ることにした。受付窓口で切符を購入する。とっさに「支石墓」という言葉が言えなかったので,ガイドブックを見せながら何方面のバスに乗ったらいいのか聞いた。1枚850ウォン(日本円で約90円)。改札を出るとちょうどバスが行ってしまった後だった。そのまま外で少し待つ。日中の気温は1℃にも満たない。10分ぐらいして次のバスがやってきた。「よし,やっと乗れる」と思い,到着したばかりのバスに乗り込む。前から3番目の席に座った。運転手は降りて事務所に入って行った。それから10分ぐらいした頃だろうか。次の客が入ってきた。70歳くらいの老人だった。何やらバスの発車時間のことでぶつぶつ言っている。運転手は戻ってくる気配がない。そこで,このバスの出発はそんなにすぐではないことに気付く。とっさにバスを降りた。念のため壁に掛かった時刻表を見てみると,出発時間が1時間後になっているではないか。バスの出発時間を待っていたら日が暮れてしまう。そこでバスターミナルを抜け出し,タクシーを乗ることにした。
◆江華支石墓(カンファジソンミョ) バスターミナルの前にはタクシーが40台くらいきれいに4列で並んでいた。私は一番手前のタクシーのドアを開け,支石墓まで行って欲しいと告げた。運転手は,「支石墓だね。あとそれからどこに行きますか?」と聞いてきた。そこで「富近里群と三巨里支石墓群と五重石塔と奉天台……」と答えた。とにかく江華支石墓のところで降ろしてもらえば,あとは歩いていけると思っていた。しかし運転手は「奉天台は山を登らなければならないし,富近里群と三巨里支石墓群は江華支石墓と同じで,江華支石墓を見ればそれでいい」と言う。さきほど観光案内所でもらった地図では,見たいところはすぐ隣にある。それに他人が私の見たいと思っているところにケチをつけて,その上行かせないのは何なのか。半分憤りながらも,しかし,そういう感情は抑えて,とりあえず江華支石墓まで運んでもらうことにした。走り始めて15分が経っただろうか。車はほぼ直線でスピードを出しているのになかなか目的地にたどり着かない。ここでやっと,さきほど運転手が言っていた意味が分かった。この江華島は意外にもかなり大きな島だったのである。地図では1cmのところでも実際はかなり離れている。縮尺がなかったせいもあり,私の頭の中では距離感覚がまったく麻痺していたのである。そうこうしているうちに目的地の江華支石墓に到着した。5分くらいにわたって運転手に,富近里群に三巨里支石墓群,五重石塔,奉天台は諦めるように説得させられた。その上,バスがほとんど来ないから,このタクシーで島内を回るようにとも勧められた。まったく予想だにしていなかったが,バスを待っていたら本当に江華支石墓だけで一日が終わってしまう気がした。周りを見回すとタクシーらしきものはまったく走っていないし,周囲には民家さえ見えない。見渡す限り畑である。そして,上りのバスがあるのさえ分からない。ここで降ろされたら本当に帰れなくなりそうな気配もした。そこでこのタクシーを貸し切って,1日お世話になることにした。タクシーを降りる。支石墓の周りは見学者用の広場のようになっている。かといってコンクリートを敷いたり,遊具があったりするわけではない。ただの芝生の上に,石や(日本で言う)竪穴住居があるだけである。目の前には高さ2.5m,幅4m,厚さ0.4mほどの巨大な石が地面に斜めに突き刺さっていた。そして遠くの方を眺めると巨大な支石墓が立っていた。この支石墓は高さ2.6m,長さ7.1mの巨大なもので二本足で堂々と構えていた。しかし支石墓は何も語ってくれない。その容姿を見ながら,ふと,この支石墓が存在していた千年以上の歴史を考えていた。時には雨に打たれながら,時には雪に埋もれながら,また,土の中に埋もれながら過ごした千年。支石墓だけがしっている古代の人たち。そういう遙か昔に思いをはせるのも時にはいいのではないか。支石墓の近くには見学者に分かりやすいように,当時どのように石を運んできたのかが分かるように無造作に展示している。一通り見終わって,タクシーに向かおうとすると,タクシーの前に50歳台のおじさんが煙草を吸いながら立っていた。この時初めて正面からさっきの運転手の顔を見た。よく見てみると映画俳優のソン・ガンホとそっくりである。煙草をくわえながら,しかめっ面をしているところは,まさに映画『殺人の追憶』のあるシーンと重なる。映画の冒頭で殺された死体が発見されるシーンである。「記念に写真撮りましょうか」運転手は言ったが,私は写真を撮られるのはあまり好きでない。断って,次の場所に行くことにした。
◆草芝鎮(チョジジン) 運転手は江華歴史館に向かっていた。来た道をまた戻る。もう午後2時近かった。歴史館で時間をとられてしまっては他の場所に行けなくなると思い,途中で草芝鎮に向かうようお願いした。そう告げると運転手は「なるほど,遠いところから攻めていくんですね」と言って納得した様子だった。歴史館の前を通り過ぎて,タクシーはずっと南の方へ走っていった。川に沿って道は続く。この川は本土と島の間を北から南に流れる川で,車の中からでも白い氷のようなものが浮いているのが分かる。30分くらい経った頃だろうか。島の南端(地図上では南西に位置する)に近い場所,草芝鎮に到着した。韓国人のツアー客が少し前に来ていた。年寄りのガイドがカラオケ用のマイクを持って大声で説明している。田舎なまりではあったものの,割とソウルの話し方に近かったのでそんなに遠くの方々ではないらしい。時には蟻のように散らばり,時には蟻のように群れたりしている。ここで草芝鎮の説明をしよう。草芝鎮は海上から侵入する外敵を防ぐために孝宗7年(1656),江華島海岸の守りを強化するために築造された。ここには軍隊を置き,軍官24人,士兵59人,進軍18人の総勢102人の兵力が駐屯し,砲座4台,銃座26台を設置したところである。塀に囲まれた中に砲台が設置されている。現在は当時使われていた砲台1台が真ん中に置かれている。
看板の説明 「ここは海上から侵入する外敵を防ぐために,朝鮮孝宗7年(1656)構築された要塞だ。その後,高宗3年(1866)に天主教弾圧を口実に侵入したフランスのローズ極東艦隊や高宗8年(1871)4月に通商を強要し来侵したロシャースアジア艦隊,そして高宗12年(1875)8月に侵攻した日本の軍艦雲揚号を迎え撃ち熾烈な戦闘を繰り広げた激戦地だ。当時,フランスや米国,そして日本の艦隊が優秀な近代式武器を所有していたにもかかわらず,朝鮮軍は射程距離も短く,照準も不正確な劣悪な武器で対抗し闘ったのである。特に雲揚号の侵攻は高宗13年(1876)弾圧的な江華島修好条約の締結を招来することになり,日本侵略の門戸を開放することになってしまった。当時この鎮には兵馬□節制使1人,軍官11人,軍士320人,軍船3隻が駐屯していたという。ここが民族試練の歴史的な現場であることから護国精神の教育現場になるよう,1973年に城郭を補修して当時の大砲を陳列しておいた。」
◆徳津鎮(トクジンジン) タクシーは北上し,次の目的地,徳津鎮に向かった。草芝鎮から車で5分くらいのところである。ここは門と壁だけである。人の気配がなく,静かに時が流れていた。先日降った雪が門のすぐ近くまで残っていた。雪はまだサクサクしており,誰も踏んでいないようだった。日が傾き始めたこともあり,門の反対側(川側)は日陰になっていた。川は表面が凍りかけている。目の前の寒々しい風景が印象的だった。景色を眺めていると後ろで犬の鳴き声がする。モンモン。韓国では犬はこのように鳴く。もちろん私にはワンワンとしか聞こえないが...。振り返ると柴犬(雑種)とシーズーの2匹が私を見ていた。いや,威嚇しながら吠えていたと言った方が正確かもしれない。この近くに民家があるらしい。私がカメラを向けると怖がって遠ざかってしまった。
◆広城堡(クァンソンボ) タクシーはさらに北上し,広城堡に向かった。徳津鎮から車で3分ほどの場所にある。駐車場で降りて少し坂道を歩く。男子高校生が見学に来ていた。その数およそ300人ほど。門の前でクラスごとに集合写真を撮っていた。広城堡は朝鮮孝宗9年(1658)に設置された。英祖21年(1745),城を改築する時に城門を建設し按海楼が設置された。
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