2008
〜少い残り時間〜
阿久 悠さんの詩に
「夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り
友は別れて友と知り……」。とあります。
小生の残り時間も少くなりました。すでに昔からの友が何人もこの世を去りました。「友は別れて友と知り…」です。
幸せの老後などは、まずありません。老人になると目がよく見えず、耳が聴こえず、体のあちこちが駄目になってきます。
人は一生の間に、何人の人と出会い、そのうち何人と語りあえるでしょうか。
幸運な事に、小生には百人を超えるゼミ生がいます。このゼミ生達は、会えば昔と変らず語りあえます。八十をすぎても、このような幸せをもっている人は、きわめて少いと思います。
第一期のゼミ生が、いまの小生の歳になるには、まだ三十年以上もあります。三十年あると、これから、かなりのことができます。
新しい目標をたてて、出直すことすらできます。三十年間という宝石のような時間がもてるゼミ生の幸運を心から祈る毎日です。
2007
〜勘も衰える〜
伊達政宗の詩に
「馬上に少年過ぎ、世は平らかにして白髪多し、残躯は天の赦す所、楽しまずして如何せん」とある。
(若いときを戦陣の馬上で過ごし、平和な世を迎えて白髪となる。天から賜った老いの身、楽しまずにいられようか。)
小生、数え八十一歳、ここ数年前から、目も悪く、耳も遠い。腰や肩も痛む。体の故障も増え、衰えも、はげしい。その上、この頃は勘も鈍くなってきた。
「勘」−直感的に感じ取ったり、判断したりする、心の働き。第六感。「−がいい。−が鈍い。−で分かる。」勘が働くには、頑健な肉体とともに、よくものが見え、よくきこえたりして、感性がゆたかでないと、勘は働かない。
八十をすぎた老いの身では、勘は働かず、楽しむことも少ない。では、若い人達は、勘が鋭く、正しい判断ができるかというと、そうでもない。若い時は勘が鋭いために、勘違いすることがままある。このため判断を間違えたり、失敗したりする。手もとの辞書の「老いる」を見ると「年を取る」「馬齢を重ねる」「老いぼれる」「老いさらばえる」「老衰」「もうろく」「老け込む」「老死」とある。できることなら「老師」「老匠」「老雄」「老熟」「老練」「老大家」となりたいものである。残躯は天の赦す所、楽しまずして如何せん。せめて、学思会総会の幹事が一巡するまでは、−。と思う、きょうこの頃である。
2006
〜もう最晩年〜
小生今年で数え八十歳となった。文芸春秋二月特別号(二〇〇六年)を拾い読をしていたら『初めて会った時の田中(清玄)氏は八十歳を越え、その最晩年を迎えていた。』という活字が目に入った。ドキッとした。小生は最晩年かと―。たまには晩年とは思っていたが「最晩年」と思ったことはいままで一度もない。もちろん体のアチコチは当然ものことながら故障している。でも週に二度位は上京し、(病院通いも含めて)寄席、映画、音楽をたのしみ、たまには競馬場にも足をのばし、昔の後輩達と麻雀を囲んだりもしている。量は少くなったが酒ものみ、美しく聡明な人も楽しい。
そして、たのまれれば、原稿なども書いている。(これは疲れる。)
しかし、新聞をよんで理解するのにいままでより時間がかかり、目がよくみえず、耳も遠い。トイレが近い。歩く速さものろくなり、腰や肩が痛む。と書いていったらマイナス部分はいくらでもある。でも基本的には、楽観主義で、歳をとればこれは当然のこと。「死ぬ時は、死になされ」で開き直っている。といいながら、日大病院の内科、整形外科、泌尿器科、眼科、歯科と、多くの教授から指導をうけ、健康食品なども信じてやたらと飲み、近所のプールで泳いだりもしている。
世の中はなにかと騒騒しい。隣の韓国、中国、北朝鮮との問題。これからの日本経済を新たな成長軌道にのせるためにはどうするか。企業倫理のあり方。人口の減少。年金、医療、などなど問題はいくらでもある。
小泉総理も九月にはやめるだろう。はやくも総理周辺の足もとがガタガタしてきた。時代の潮の流れ、風向きが変りだした。こういう時こそ、ものの本質を見ぬく洞察力が大事だ。団塊の世代がいなくなる諸君達の前途はあかるいとも云える。ますますの健闘を祈る。
2005
「もう少し、生きのびてこの世の行く末をみてみたい。」と昨年書きましたが、どうも世の中はだんだんおかしくなっていくような気がしています。
二〇〇三年、三月、米国軍はイラクに入りました。昨年ある小さな集まりで、イラクではいま、米国人以外に、民間人の軍事要員が二万人ほどおり、国家の軍事業務を、民間の軍事請負企業が代行しているという報告をききました。
その後の情報では、民間軍事請負企業の成長は、イラク戦争を契機に、驚異的に成長したそうですが、いまや民間軍事市場は、地球規模で広がってきているということです。
しかも、この軍事能力が、国家の支配を受けず、誰でも手に入れられるという世の中になってきたようです。ここで問題なのは、民間軍事請負企業は、国家の統制と組織の外にあるということです。しかも、現在の国際法は、このような産業についてほとんど対応していません。いま、郵政事業の民営化にみられるように、政府業務の効率化をめざした民営化政策は、世界中で進行していますが、同じことが政府の独占領域とされていた、戦争や安全保障分野でもはじまったということになります。
こうした民営化された軍事力が、国家や国際社会のコントロールからはなれ、好ましくないところで利用されたらと、大変心配しています。
次に、もうひとつ心配なことが ― 。
私どもは、デフレ経済に長いことつかっていますが、世界経済は、そろそろインフレへの転換期にさしかかってきたのではないでしょうか。日本、アメリカ、ヨーロッパでは、高齢化による財政負担が、かつて経験したことがない事態になっています。いまインフレのことなど考えにくいなどとは思わず、くれぐれも将来のインフレ対策を考えておいて下さい。
『歎異抄』(親鸞が口述した書物)のなかで、唯円という弟子が、親鸞に
「往生 ― お浄土に往くこと ― がすばらしいということについては、私は頭ではよくわかっているのですが、私の心はすこしも、よろこばないのです。これはどうしたことでしょう。」とたずねています。この時、親鸞は
「唯円さん、あなたもそうか、じつは私もそうなのだ。」と答えています。この時、親鸞すでに八十をすぎていました。
「モウ ソロソロ」とか「マダ マダ」とか書いてきましたが、八十には二年もある小生などは、このようなことをいってはいけないことだと自戒しています。
なにがうそでなにがほんとの寒さかな 久保田 万太郎
2004
“モウ ソロソロ コレデ オシマイ”と昨年書きましたが、なんとか無事にこの一年がすぎました。諸君達も、当然のことながらこの一年、そろってお元気な様子、なによりでした。ところが、小生、このごろなんとなく、疲れを感じるようなことがおきています。今年は“喜寿”歳からいうと、あたりまえかもしれません。
この一月、宮島善高 法学部名誉教授(新聞学科創設者のお一人)が亡くなられました。享年八十一歳。葬儀は一月三十一日、長野市で行われ、小生、日帰りで出かけました。一泊とも考えましたが、翌二月一日、断れない会合があり、日帰りにしたわけです。新幹線で、東京、長野間は往復三時間、たいしたことではありません。翌二月一日、小田原へ出かけ、夕方から会食、日本酒を二合ほど飲みました。帰ろうとして、立ち上り、一瞬、意識を失い、倒れ、救急車で病院に運ばれました。頭を打ちましたが、運よく無事でした。キリツセイ?貧血ではないかということで、近く、さらに精密検査をすることになっています。医者にいわせると、鎌倉、長野を一日で往復、その翌日、小田原での会合、疲れ以外に原因は考えられず、歳を考えなさいということでした。
”疲れを感じる“ようなこととは、このことです。本人は、あまり感じないので困るのですが。
感じるといえば、このごろ世の中が少々おかしくなってきたのではないかと感じています。暇な老人が、世の中がおかしくなっていると感じることが、疲れの原因の一つではないかとも思ったりしています。
日本は、これからどうなるのか。アジアは。世界は。このごろは、もう少し、生きのびてこの世の行く末をみてみたいと思うようになってきました。昨年は、“コレデ オシマイ”と思っていましたが、今年は、“マダ・マダ”に変ってきているわけです。世の中が、少々おかしいということについては、学思会で話したいと思っています。
友だちの なきまま傘寿 日向ぼこ (平野隆志)
諸君達にかこまれて、この句のようにならないようにと願っている、きょうこのごろです。
2003
この三月で、非常勤講師をやめ、いよいよなんにもしないでいい、という生活がはじまります。はじめての経験です。
辞書をひくと 「隠退」−仕事や社会的活動をやめて、悠々自適の暮しに入ること−「隠居」−仕事や生計の責任者であることをやめ、好きなことをして暮すこと−となっています。
二月はじめに、最後の仕事となった試験の採点もすませ、すでになんにもしないでいい、という生活に入っています。
五十年以上、なにやかやとしてきたのですから、いまさら、なにもしないで、じっとしているのは、難しいようです。じっといるには、なにか”強さ“のようなものも、必要なようです。なんにもしないことは、必ずしも負の時間ではない。かけがえのないものを手に入れる時間になるのではないかという、淡い期待もあります。
七十六年間の人生をふり返ってみると、最後の二十年間あまりの諸君達との生活が、一番充実していたと思います。それは、こんなにもすばらしい、一四四人のゼミ生にめぐりあえ、ともに学びあい、語りあい、遊びあい、そして悩みあうことができたからだと思います。
隠退したあとも、すくなくとも、年一回は(三月の第一土曜日)昔にもどり、こうして諸君達にあえるというのは、浄福だと感謝しています。
もう、あまり力にはなれませんが、愚痴ぐらいはきけそうですから、愚痴がこぼしたくなったら、こぼしにきて下さい。もちろん、喜びを話したいなら、元気なうちは、こちらから飛んでいきます。
小生も、「モウ ソロソロ コレデオシマイ」の時期です。
なにはともあれ、みなさん、体を大切にして、元気でおすごし下さい。
2001
私の尊敬する山本夏彦は、数々の名言を残している。今も書いている。ヒマになった私は、これを繙いては、カラ元気をだしている。
「老人は死なず、赤ん坊だって生まれたが最後、ガラス瓶に入れられてでも育つ。それはヒューマニズムの名によって礼賛されているが、死ぬべき人は、死ぬのが本来だと、恐れながら私は申し上げる。薬の出現によって、百年このかた、人は死ななくなった。本当は死ぬべき人が、生きてこの世を歩いている。これが副作用の随一だと、私は見ている。」
「老人と幼な子はよく似ていて、よだれは垂らす小便はする甘える聞き分けはない。赤ん坊なら誰も嫌がらないのに老人は嫌がる。それというのも、幼な子には未来があるが、老人にはないからで、赤ん坊はいきいきと生きているが老人はなかば死んでいるからである。未来なんて何ものでもないとすでに未来を経験してしまった老人は想っているが、言っても相手にされないし言う気もない。」
「私はもういつ死んでもいいのである。それは覚悟なんてものではない。いっそ自然なのである。その日まで私のすることといえば、死ぬまでのひまつぶしである。」
「年寄りのバカほどバカなものはない。」
バカな老人が、ひまをもてあましています。声をかけてくだされば、でかけてまいります。
次は諸君達へ…。
個性というものは、生きてある限りありつづけるから、二十年でも三十年でもつづいてよさそうだが、その全盛時代はまず三年かと私は見ている。(才能というものは)のぼり坂が三年、のぼりつめて三年、くだり坂が三年、しめて十年つづけばいいほうである。
あなたは、今、のぼり坂ですか?くだり坂ですか?いや、これからのぼり坂ですか?
全盛時代は三年ですぞ。十年つづけばいいほうです。ホントです。
2000
志賀直哉は、老醜という言葉はいやだ。老廃ならまだいいと書いている。小生、まだ、どちらもいやだ。昼前まで、ゆっくり寝床で新聞を読んで、起きだし、書斎をかたづけていると、すぐに夜の7時ニュースがはじまる。少し酒をのんで夕食を食べ、つまらぬものを読んでいると、あっという間に夜中になる。年をとると一日がはやい。これが耄碌したいまの生活です。
たまに、昔の仲間から麻雀のお誘いがかかる。昼頃に落ち合い、夕方から酒宴となる。昔話しと、世の中を慨嘆する。たまには頼まれて人の相談にものる。毎週、月曜日には水泳にでかけ、指圧をし、金曜日の午後は「世論」についてまだ喋っている。できるだけ歩こうと、一日一万歩を目標にしている。健康食品を信じて何種類も食べている。
一休和尚が臨終の時、「ここに遺言状が入っている。百年後、二百年後、一山興亡の大事が生じた場合にだけ開けろ」と遺言して亡くなった。百年後、大徳寺本山の浮沈にかかわる大問題が発生、だれかが思い出して開けてみた。それには「ナルヨウニナル シンパイスルナ」とだけ書いてあった。人生「ナルヨウニナル シンパイスルナ」です。
ロシアの作家ゴーゴリーは「死せる魂」のなかで、「青年は、未来があるというだけでも幸福である」と書いている。
諸君達は、いまが幸福であることを知ってほしい。
1999
“このごろ思うことを”再び書くことになるとは、思ってもいなかった。心嬉しい。この小冊子は、一期生の伊藤啓太君、棚橋美稚誉君、丹羽敦子君、それに二期生の中村正人君の四人の手でできた。在学生が準備して毎年3月に開いていたOB会も、今回はこの四人が中心となって準備を進めてきたときく。心からお礼を申し上げたい。
小生、今年は年男である。次の年男まではとても生きていまい。たとえ生きていてもOB会の出席など無理だろう。先輩達をみていると、77歳(男の平均寿命)ぐらいまではなんとか動けるようだ。だとするとOB会で諸君達にお目にかかるのも、5回ぐらいだと思う。
司馬遼太郎は『国盗り物語』の中で、次のように書いている。
「人間、思い上がらずに何ができましょうか。美人は我が身が美しいと思い上がっておればこそ、より美しくみえ、また美しさを増すものでござりまする。
才ある者は思い上がってこそ、十の力を十二にも発揮することができ、膂力あるものは我が力優れりと思えばこそ、肚の底から力が湧き上がってくるものでござります。」と。
諸君達が思い上がって、これからの人生を歩むことを心から願っている。
1997
▽ ことし(1997年)の8月に古希となり、退職いたします。
▽ 1979年、法学部の非常勤講師となり、1983年に、法学部教授となってから、あわせて18年間、新聞学科にかかわりました。
▽ この間、144人のゼミ生が、私のもとに集い、学び、遊びました。学んだのはゼミ生だけではありません。私も一緒に、学び、遊ばしてもらいました。
▽ この18年間を振り返って、いま144人のゼミ生にあらためて申し上げることは、ただ一言、“ありがとう”だけです。
▽ 人生の最終コーナーに入って、144人もの、若い友だちをもつことのできた幸せをかみしめています。
▽ 司馬遼太郎は「人間には本能がある。食欲と性欲と睡眠欲が三大本能として、四番目があるとしたら、それは教育をする本能、そして教育を受けたくなる本能かも知れません。」と言い残しています。
▽ 私は教育を受けたくなるような先生だったであろうか。といまになって反省しています。
▽ なにはともあれ、144人のみなさん、“ありがとう”これからもよろしく。
1996
▽ 一つの時代が終り、新しい時代がはじまっている。過渡期である。去年(1995年)一年を振り返っても、阪神大震災から始まり、地下鉄サリン事件とオウム心理教への破防法適用、全日空機ハイジャック事件、金融不安、沖縄問題……。
▽ これほど大事件が続いた年も珍しい。ジャーナリズムのあり方も鋭く問われている。
諸君達が時流に染まらず、いつまでも、若々しさを失うことなく、その勇壮な志を胸にたゆまぬ努力を重ねることを期待している。
▽ 前回の里程標で「最後となるであろう12期のゼミ生8人がそろった」と書いた。
「なるであろう」と書いておいてよかった。なぜなら今度は間違いなく最後となる13期のゼミ生12人を迎えたからだ。
▽ この間の事情を説明しておきたい。今度の13期のゼミ生が、4年生の8月(1997年)になると、小生は停年(70歳)となる。このため退職するので、当然のことながら研究室もなくなる。ゼミの授業は、特別の理由がない限り、13期生が卒業するまではつづけることにはなる。
▽ というわけで、13期生は4年生になった時、8月からは週に一度ぐらい学校にくるであろう(非常勤)小生との交流になる。これでは十分でないと思い、12期のゼミ生をもって最後にしようと考えた。
▽ ところが、学校のルールで、もう一回ゼミ生をとらなければいけないといわれた。
よって間違いなく、最後となる13期生のゼミ生12人を新しく迎えたわけだ。なかなか粒揃いのメンバーなので最後の美を飾れると思っている。
▽ 結局、小生のゼミはあわせて144人の同じ志を持った仲間が集い、研さんを積んだことになる。144人を多いと思うか? 少ないと思うか? ともあれ同じ志を持った144人の仲間が、今後も団結し、助けあって進んでいけたらすばらしいことだ。それを心から願っている。
※去年(1995年)の5月、病気療養中だった第1期生の田浦光洋君が亡くなった。
心から御冥福をお祈りします。
1995
▽ 最後となるであろう12期のゼミ生8人がそろった。1985年(昭和60年)に第1期のゼミ生13人でスタートしたわがゼミも、この12年間に132人の同じ志をもった仲間が集い、研さんを積んできた。
▽ この12年間の世の中の動きは、はげしい。最近の国内の政治をみても、彗星のように首相の座についた細川護煕が、あっけなく政権を投げ出し、つづく羽田内閣は、何ひとつ失政がないまま総辞職に追いこまれた。そして、村山富市を首班とする自民、社会の連立政権が発足した。社会党は自衛隊を合憲と認め、日米安全保障条約を堅持する方針を打ち出した。
▽ 一つの時代が終わり、新しい時代がはじまっている。ソ連邦は消滅し、企業はリストラにふりまわされ、学生は就職が最大の感心事になってきている。戦後の高度成長も終り、世の中の仕組みも大きく変りつつある。
▽ 去年の里程標で「若々しさを失うことなく、その勇壮な志を胸にたゆまぬ努力を重ねてくれるように」と書いた。そして、「若者が壮志を胸に抱けば、理想を貫くことができ、時流に流されることもないのだ」とも書いた。諸君たちが、自らを信じて目的にむかって一歩一歩力強く進んでいくことを願っている。132人の同じ志を持った仲間が、今後も団結し、助けあって進んでいって欲しいとも心から願っている。
※この12年間にきわめて残念なことが一つあった。それは、去年の3月、第8期生の西槇賢哉君(山陽新聞記者)が交通事故で亡くなったことだ。
心からご冥福をお祈りします。
1994
▽ 1993年度の就職状況はきびしい。わがゼミナールも、まだ最終的に(11月末現在)きめてないものがいる。こんなことははじめての経験である。
▽ 李白に「人心は波瀾の若く、世路は屈曲有り。」とある。人の心は波のように揺れ動くもので、しかも歩まねばならない世間の道には、いろいろとまた、曲がりくねりがあるものだ。心には揺れ、人生には曲折が必ずあるものだ。
▽ いま青春の真っ盛りにいる諸君たちに、いくつかの漢詩をおくる。
後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。
あとから生まれてくる若者たちは恐るべきである。どうしてこれからやってくる彼らが、現在のわたくしに及ばないとわかることができようか。学問修養にうちこみ、ひたすら努めるとしたらいずれ自分を追い越すこともありうるではないか。
少壮にして努力せずんば、老大にして乃ち傷悲せん。
年月は二度とかえってこないのだから、若く元気な時に努め励んでおかなければ、年老いてから嘆き悲しむことになる。その時になって後悔してもどうにもならない。若い時に無為に過ごさぬように。
少年の心事は当に雲を拏うべし、誰か幽寒にして坐して鳴するを念わんや。
若者の心境は、空に浮かぶ雲さえつかみ取るほどの勢いに満ちているはずだ。ひっそりとわびしげにむせびないていたなどだれが思うか。
願わくは君玄曜を保ち、壮志自ら沈むる無からんことを。
どうか君が、若々しさを失うことなく、その勇壮な志を胸にたゆまぬ努力を重ねてくれるように。
少年志気を負えば、道を信じて時に従わず。
若者が壮志を胸に抱けば、理想を貫くことができ、時流に流されることもないのだ。
▽ 諸君たちの研さんを期待している。
1993
10周年記念
勉励すべし 〜ゼミ10周年〜今年の4月(平成5年)小生のゼミナールに入ってくる学生が10期生である。10年目の節目を迎えたことになる。あと3回、すなわち13期生まででこのゼミも終わりとなる。(小生が退転するから)「10周年特別インタビュー」でしゃべっているが、たとえ報われなくても“人間は一生懸命コツコツとやるべきだ”というのが小生の考え方だ。ほとんどのゼミ生が一生懸命やってきたと思うし、これからもやっていくと思う。志をもって、私のゼミに入り、毎年その志を育てて巣立っていく。思えば私の人生のなかこの10年は充実した10年だった。毎年、毎年、充実させてくれたゼミ生にあらためて感謝したい。
陶淵明の「雑詩」と題する詩の一句に
盛年不重来 盛年 重ねて来たらず、
一日難再晨 一日 再び晨なり難し。
及時当勉励 時に及んで当に勉励すべし、
歳月不待人 歳月 人を待たず。
とある。
「若い時は二度とやってこないし、一日のうち二回も朝がくるわけではない。楽しめるときには、せいいっぱいたのしもう。歳月は人を待ってくれないのだから」という意味だ。
これでおわかりのように「勉励すべし」勉強に励めというのでなく、楽しみのほうにはげめと言っているのである。小生の“一生懸命”にはそういった意味もふくまれている。
1993
ジャーナリストを志すものが集い、ゼミナールをはじめて10年を数える。この間87人が社会にでた。いまゼミナールにいるものは22人、平成5年度に入ってくるものは12人、あわせて121人である。ジャーナリストを志しても、それを職業とするとは限らない。もちろん職業としてジャーナリストを選んだものもいる。しかし、このゼミナールで育ったものは誰しもがジャーナリスト精神はもちつづけていくだろうと思っている。寸鉄の名言に満ちている山本夏彦氏のコラムから、その一部を借りて10年の反省としたい。
▽ 事実があるから報道があるのではない。報道があるから事実があるのである。
▽ 大ぜいが異口同音にいうことなら信じなくていいことだ。
▽ 大新聞はいま正義の権化になって、やましいところはひとつもなくなってしまいました。ついこの間まで「羽織ゴロ」だったことを忘れてしまいました。むかしの新聞記者は心中ひそかに恥じていました。自分はやましくなくても、自分の仲間、同業者がやましいことをしているなら恥じないわけにはいかないと、みな内心忸怩としていました。いまはしません。忸怩としなくなると、人はみな増長すること新聞記者に限りません。
▽ 言論というものは、実はあんまり重みがないほうがいいのである。新聞の言論はだれも信じるようになったから、世を誤るようになったのです。すこししか信じなければ誤ることもすこしだから、そのほうがいいのである。
▽ ジャーナリズムというものは所詮、堅気のすることじゃない。堅気にはまずタイトルがつけられません。そして、ジャーナリズムはついにタイトルです。
▽ 申しぶんないことを言うひとたちはうろんですよ。
▽ 私は「言論の自由」と聞くとカッとなるくせがある。それは危険なときは黙っていて、安全とみてとると我がちに言う自由のことかと思うからである。
▽ 大衆社会は大衆に迎合する社会で、新聞雑誌はひたすら売れることを欲しテレビは見られることを欲するから、大ぜいが機嫌を損じることは言わない。また言えない。人民は悪をなし得ずなんぞと言って媚びる。
(何用あって月世界へ 山本夏彦名言集 発売元・文藝春秋)
1992
▽ 1991年は、湾岸戦争、ソ連邦消滅、国内では証券・金融不祥事、宮沢政権誕生など、内外ともに大きく揺れた一年だった。
▽ わがゼミナールも、法学部の学園祭で3年生がNIE(教育に新聞を)について研究報告したところ、日本新聞協会が、11月19日付の“新聞協会報”で「日本大学法学部(東京都千代田区三崎町)で学園祭期間中の二日、新聞学科・牧田弘教授のゼミナール生がNIEについての研究発表を行なった。同ゼミ3年生12人が今年九月から取り組んできた研究の成果を披露したもので………」と60行の記事で報道してくれた。
▽ 司馬遼太郎の「風塵抄」をよんでいたら次の様な文章があった。
人間はたいしたものである。
たれでも、理性と感性の中間あたりに悟性という能力をもっていて、ほとんどの人が、コトやモノをみたとき、大づかみにその本質を察する。「あの犬は病気だな」というふうに。それと同様、「人生は、むなしい」ということは、お釈迦さまにいわれなくても、たれもがわかっているのである。でありながら、人はけなげにも世を捨てない。
高校生は受験勉強をし、大学生は知力と体をきたえ、サラリーマンは会社のために人生のほとんどの時間をささげ、商人は小さな店を守って客の顔をみてよろこび、母親は、母乳をのまないこどものために四苦八苦する。“無常迅速”を売りものにするなまなかなお坊さんより凡夫のほうがえらいのは、人生のむなしさの上に自分の人生を日々構築してゆく点にある。
▽ 諸君達は知力と体をきたえているか。
▽ ことしも9期生11人を迎えた。1992年は、10期生を迎えることになる。この間ゼミ生は知力と体をきたえていたであろうか。
1990
このごろの学生は、自信がないように見える。迷いがあるようにも見える。これは、すべてのことに平均点以上をとりたいと考えているからではないか?
作文を書かせると、80点以上をとるものは、ほとんどいないが、60点以下もいない。面白くも、つまらなくもない70点前後が多い。人間は百点を目指す必要はない。60点を目指して努力すればよい。しかし、なにか一つだけは、80点以上を目指す。そんな努力をして欲しい。80点以上ということは、自分が志したことについて、自分なりに「これしかできぬ」というところまでやることだ。ダメなものはダメなりに、自分は「これしかできぬ」というところまで努力することだ。平均点以上とれないからやめた。平均点以上のことはやれないから志をかえるではなにも努力しないと同じだ。
諸君たちは、少くともこのゼミにジャーナリストを志して入ってきたのであろう。自分の進むべき道は、ジャーナリストしかないときめて入ってきたのであろう。それならくだらぬことをあれこれ考える必要はない。自分なりに「これしかできぬ」といえるまで目的に向かって努力して欲しい。
禅のことばに「妄想をするな」ということばがある。あれこれ考えて迷うな。これしかないと決断すべきだということだ。決断したら迷わぬことだ。とはいっても、わたしたちは妄想する。あれこれ考えて、迷ってしまう。しかし、いつまで迷っていても、どうにもならない。思いきって決断すべきだ。人生は一期一会の積み重ねだ。志を同じくして、わがゼミに集まった人たちに、精いっぱいに会おうと思っている。諸君たちも精いっぱい会ってほしい。
1989
世の中が、ただごとではないような気もする。リクルートの報道をみていると、日本の各界のひとびとが、ただひたすらリッチになることを願っているようにみえてくる。官界も、財界も、マスコミ界も、文化人……。すべてが、ただリ
ッチになることを願っているようにみえてくる。しかも、これらのひとびとは、いづれも特権階級に属していることは間違いない。文字どおり、その特権によってのみつかめる“ぬれ手に粟”のひとにぎりのひとびとだ。
これに対し、いつもなら一番最初に怒るジャーナリズムが本気に怒っているとは思えない。野党も本気で怒っていない。もちろん学生も怒らない。日本中、だれもが本気に怒っているとは思えない。世の中はどうなってしまったのだろうか。東京にいる外国の特派員は、この事件の第一報で「竹下内閣は、まもなくつぶれるだろう」という原稿を書いたという。しかし、竹下内閣はいまだにつぶれない。このような国のひとびとを、世界のひとびとが、まともに付き合ってくれるだろうか。
ジャーナリズムはどうあるべきか。ジャーナリストはどうあるべきか。わがゼミナールでは、毎年、執ようにこのことをみんなで考えてきた。発行部数の多くなることを考え、視聴率の多くなることを考えている現在のマスコミ。そしていつのまにやら情報加工業者になってきているマスコミ。言論機関の機能を失ってきているマスコミ。ジャーナリストをめざす、若者といっしょに学び考えている時、その受けざらの荒廃に胸が痛むのは、小生だけであろうか。もう、そろそろ世の中のひとびとは、心のリッチを願ってもいいのではないだろうか。
司馬遷の『史記』に「その人を知らざれば、その友を視よ」とあります。
その人がよく判らなかったら、どんな友だちと交わっているかを調べれば、その人物の評価がわかるということです。友人が、みんな素晴らしい人たちで良い人物なら、文句なしにその人を信頼しても大丈夫だということです。縁あって、わがゼミナールに入ってきたものは、こんど入った六期生14人を加えると、1期生13人、2期生15人、3期生7人、4期生13人、5期生13人、あわせて75人になります。わがゼミナールの出身者なら信頼しても大丈夫といわれるようになりたいものです。諸君たちの研さんを期待します。
1988
卒業して、まだ数年しかたたない人たちと、話しをする機会があった。だれもが、なんとなく、分別くさくなっており、青春は、もう、過去のものになってしまったようにすら、感じられた。時がたつのは、はやい。わがゼミナールも、五期生を迎えるまでになった。諸君たちが、いつまでも青春をもちつづけることを願って、サムエル・ウルマンの詩「青春」をしるす。
青 春
サムエル・ウルマン
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二〇歳の青春よりも六〇歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥になる。
六〇歳であろうと一六歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲歎の氷にとざされるとき、二〇歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春にして已む。(宇野 収 訳)
この新聞学科を創設した、わが師、長谷川 了の一生は、「青春」そのものであった。
1987
去年のフランスの大学受験資格の出題は「主は人生をしあわせにしたもうや」と「文化財の交換価値について」であったという。このどちらかを選んで書く。制限時間は四時間。どんな参考書でも持ち込める。はたして同じ世代の諸君達が、この出題で自分の論理形成ができるであろうか。このゼミも四期生を迎えるまでになった。一期生はすでに社会で活躍している。二期生も社会へとび出す準備がととのった。時の流れは、はやい。しかし、この間、わたしは諸君達をどれだけ“ものを考える”人にそだててきただろうか。覚えることに多くの時間をついやしてきた人を、考える人にすることのむずかしさを、このごろしきりに思っている。禅僧のひとり道元は、無常感ということをやかましくいっている。道元の無常は悲観ではない。人生は無常なるが故にその時その時を大事に強く生きよと教えている。われわれは、ひたすらに、そのときなすべきことを、なしていくよりほかはない。いま諸君達にのぞむことは、真剣に考えることに専念してほしいということだ。この新聞学科を創設したわが師、長谷川
了は、ひたすらに、その時その時を大事に強く生きた人だった。そして、よく考える人でもあった。
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