Extra Session
空想と現実:船乗りシンドバッドと荷かつぎシンドバッド
一人の人間の人格の異なった側面が別の人間に投射されていうようなおとぎ話はたくさんある。そのうちのひとつが、『千一夜物語』の中のひとつである『船乗りシンドバッドと荷かつぎシンドバッド』である。この物語はしばしば単に『船乗りシンドバッド』あるいは時に『シンドバッドの不思議な冒険』と呼ばれるが、このことからは物語からもとの題名をはずす人がその物語の本質をいかに理解していないかがわかる。差し替えられた題名は物語の空想的な内容を強調しており、そのためその物語の心理学的意味は損なわれている。本当の題名はその物語がまったくの同一人物の相反する側面についてのものであることを直接提示している。はるか彼方の冒険と空想の世界へ逃げ込むよう彼に強要する側面と、彼を日常の出来事につなぎとめておこうとする側面――彼のイドとエゴ、つまり快楽原則と現実原則の表れである。
物語の冒頭で、貧しい荷かつぎのシンドバッドは、ある美しい家の前で休憩している。自分の状況をよく考えてみて、彼はこう言う。「この家の持ち主は人生のあらゆる快楽の中に生きていて、よい香りとおいしい食事とみごとなワインに囲まれて喜んでいるんだ……その一方で、ものすごくつらい労働に苦しむ者もいる……僕のように。」このように彼は、気持ちのよい満足に基づいた生活と、必要性に基づいた生活とを並置している。これらのせりふが同一人物のふたつの側面に関係しているということを我々が確実に理解できるように、シンドバッドは自分自身とまだ見ぬその宮殿の主についてこう述べる。「あなたの起源はわたしであり、わたしの起源はあなたである。」
荷担ぎシンドバッドは結局その宮殿に招待され、そこでは宮殿の主が自分の7つの途方もない航海について七日間連続で語る。この旅の途中で彼はおそろしい危険に遭遇し、奇跡的に助かってものすごい財宝を持って帰還することになる。これらの話のあいだに、この貧しい荷かつぎとすばらしく富裕な航海者との同一性をさらに強調するために、航海者は言う。「おおポーターよ、知るがよい、お前の名は私の名とまったく同じなのだ。」「お前は私の兄弟になったのだ。」航海者は自分をそのような冒険へと駆り立てる力を「私の中にいる、年老いた悪者」「生まれつき悪さをするみだらな男」と呼ぶ。これらはまさに自分のイドの衝動に負けてしまう人間のイメージである。
なぜこのおとぎ話は7つの部分から成り、なぜこの二人の主人公たちは、次の日また一緒になるというのに毎日別れるのだろうか? 7は一週間の日数である。おとぎ話では、7という数はしばしば一週間のそれぞれの日を表し、また我々の人生の一日いちにちの象徴でもある。するとこの物語は、生きている限り我々の生活には、現実でのつらい生活を送る側面と素晴らしい冒険の人生を送る側面とのふた通りがある、ということを言っているようである。別の解釈をしてみると、これはこのような正反対の生活を人生の昼と夜であるとみることであるとも言える――起きている時間と夢を見ている時間、現実と空想、あるいは我々の存在の意識の領域と無意識の領域である、と。こう見てみるとこの物語は主に、エゴとイドというふたつの異なった視点から見ると人生がどれほど異なったものであるかということを言っているのである。
この物語は、重い荷を運びつづけた荷かつぎシンドバッドが、自分を圧迫する暑さと重さのためにどのようにして疲れ果てていったかを語るところから始まる。生活の苦難を悲しく思って、彼は金持ちの人間の生活とはどんなものかを想像する。船乗りシンドバッドの話は、哀れなポーターを夢中にさせ、つらい生活から逃げさせてくれるおとぎ話に見えただろう。任務に疲れ果てたエゴはそこで、イドに圧倒されることを許してしまう。現実志向のエゴとは対照的に、イドは我々のもっとも野性的な欲望、すなわち満足か非常な危険かにつながる欲望のありかである。このことは船乗りシンドバッドの航海の7つの物語において具体的な形を与えられている。「自分の中の悪者」として認識しているものに夢中になって、彼は素晴らしい冒険を望み、そして悪夢のような恐ろしく危険な出来事――人間を、食べる前に焼き串に刺してあぶる巨人、シンドバッドを馬のように乗り回す邪悪な生き物、彼を生きたまま飲み込むと脅かす大蛇、彼を連れて空を飛ぶ巨大な鳥――に遭遇するのである。シンドバッドが助け出され、莫大な富を持って、快楽と満足のある生活に戻ってきたことで、結果的には願望を満たしてくれる空想が不安な空想に勝つ。しかし現実の要求もまた、日々満たされなければならない。しばらくの間イドが支配権を握ったあとは、エゴが再び力を持ち、荷かつぎシンドバッドは自分の、つらい労働の日々に戻っていくのである。
このおとぎ話で我々の対立する感情を同時に持つような性質が分断されてそれぞれ異なる人物に投射されていることから、この物語は我々が自分自身をよりよく知るための手助けになる。他の者が皆殺されたときも生き残り、そのうえ前代未聞の財宝を持ち帰った、勇猛で非常に豊かな航海者に本能的なイドの圧迫が映し出され、一方でその反対の現実思考のエゴの傾向が勤勉で貧しいポーターとして具体化されることで、我々の持つアンビヴァレンスはずっとうまく想像することが可能である。船乗りが「安楽と快適さと平穏」の普通の生活では満足できない、と言っていることからわかることだが、(我々のエゴを表している)ポーターがほとんど持っていないもの――想像力、つまり直接自分をとりまくものを超えたところを見る能力――を、彼は持ち過ぎているのである。
このおとぎ話が、この二人の非常に異なる人間が本当は「心では兄弟」であることを表すことで、子供はこの二人が実は同一人物の二つの部分であること、つまりイドはエゴと同じくらい、我々の人間性に不可欠なものであるということを、子供なりに理解することができる。この物語の大きな長所のうちのひとつは船乗りシンドバッドと荷かつぎシンドバッドが等しく魅力的な人物であることである。我々の本質のどちらの側も、その魅力、重要性、正当性を否定されてはいないのである。
もし我々の心の中に、この複雑な精神の傾向の分裂がいくらかでもおこっていなければ、我々が自分自身についての、またどのようにして対立する感情のあいだで引き裂かれるかということについての混乱や、これらを融合させる必要をつくりだす源を理解することはできない。それらを融合するためには、我々の人格には相反する側面があり、それがなんであるかを理解することが必要である。『船乗りシンドバッドと荷かつぎシンドバッド』は、我々の精神の相反する側面の分断と、それらが仲間であり融合されなくてはならないものだということ――二人のシンドバッドは毎日別れるが、そのあとまた一緒になる――を暗示しているのである。
分断という観点から見ると、このおとぎ話が比較的弱いところは、二人のシンドバッドに投射されてきた我々の人格の異なった側面が融合される必要があるということを、結末において象徴的に表すことができていない点である。もしこれが西欧世界のおとぎ話であれば、二人は一緒に末永く幸せに暮らして物語は終わるはずである。実際には、話を聞いている人はなぜこの二人の兄弟は別れることを続け、毎日新たに一緒になるのだろうと不思議に思って、話の結末にいくぶんがっかりしてしまう。表面的には、もし二人が永久に、とても仲良く暮らした、という、主人公がうまく精神的融合に成功したということを象徴的に表した結末になれば、物語はもっとずっと意味のあるものに思えるだろう。
しかしもしそれがこの物語の結末だったとしたら、次の夜物語を語り続けることの意味はほとんどなくなってしまう。『船乗りシンドバッドと荷かつぎシンドバッド』は『千一夜物語』の中の一部にすぎず、実際には船乗りシンドバッドの七つの航海は30夜にわたって語られているのである。